フランツ・シューベルト (1797 - 1828)
シューベルトは小学校教師の12番目の子供として生まれました。その短い生涯を通じて、この中流下の階級の言葉遣い、質素な身なり、習慣を変えないで過ごしました。11歳の時、宮廷オーケストラの少年合唱団に参加しましたが、これにより作曲の分野でサリエリの門下生の一人となりました。声変わりすると、合唱団を離れ、父親を手伝って助教員となります。と同時に、作曲家としての道に足を踏み入れます。わずか17歳で、初めて交響曲とミサ曲一篇と、極めて有名になった数篇の歌曲を書き上げました。ロマンチシズムにあふれた青年は、詩やバラードに深い感銘を受け、これに音楽をつけました。こうして、一つの楽器、または小編成のアンサンブルの伴奏で歌われるドイツ・リートという音楽の一形式を作り出し、11年の間に600以上の歌曲を書き上げました。3年間の教職を離れ、創作活動に専念し、自由な気ままな生活を始めました。
午前中は作曲、午後は散歩を楽しんだり、友人たちの集まりでピアノを弾いたりしました。特筆すべき2つの重要なことは、この天才作曲家が生涯、自分のピアノを持たなかったことと、彼の作品の公開コンサートがただの一度、死ぬ7ヶ月前に開かれた、ということです。
シューベルトはドイツ・リートのジャンルを創り出す傍ら、交響曲(25歳で未完成交響曲を書いています)、ミサ曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、そのほかの室内楽曲や舞踏曲をたくさん遺しました。
ウィーンにおけるゆかりの場所
見所1:シューベルトの生家
シューベルトは1797年1月31日、ウィーン9区にあるこの家の小さな台所で生まれました。現在ここはシューベルト生家博物館となっていて、ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー、モリッツ・フォン・シュヴィント、レオポルド・クペルヴァーザーらによるシューベルトの有名な現代肖像画や、フランツ・シューベルトのトレードマークであるメガネなどが展示されています。
見所2:シューベルト終焉の地
フランツ・シューベルトは、1828年11月19日、兄のフェルディナンドのアパート Auf der neue Wieden N°694 で亡くなりました。 その時、フランツはまだ31歳でした。 彼は治癒していない梅毒に苦しんでいましたが、直接の死因はチフスだったようです。 アパートはきしむ木の床と白塗りの壁の小さな3部屋からなる建物で、現在は博物館となっていて、本物のシューベルトの遺髪や、兄のピアノ、彼が最後に書いた歌曲『鳩の便り』を含むオリジナルの楽譜の複製などを見ることができます。
見所3:ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園
シューベルトは、現在は公園となっているヴェーリンク墓地のベートーヴェンの墓の隣に埋葬されました。 彼はベートーヴェンを非常に賞賛していましたが、彼の恥ずかしがり屋の性格が妨げとなって、シューベルトの憧れの音楽家であったベートーヴェンに生涯の間、直接会うことはありませんでした。 彼は死後初めて親密になることができたと言えます。 1888年、シューベルトの遺骨は、ウィーン中央墓地(グループ32 A、番号28)の墓に移されました。 シューベルト公園の元の墓所には、友人の詩人が書いた碑文が刻まれたオリジナルの墓石が残っています。
見所4:リヒテンタール教区教会 / シューベルト教会
シューベルト教会としても知られ、地元の人々に慕われているこの魅力的な教会で、シューベルトは洗礼を受けました。 シューベルトはこの教会の聖歌隊で歌い、オルガンを演奏し(オルガン演奏は、今でも行われています)、教会のためにいくつかの作品を作曲しました。また教会では、一年中コンサートとシューベルト・フェスティバルを行っています。
見所5:市立公園
ウィーン市立公園には、1872年に建てられたシューベルト像があります。それはシューベルトが思慮深く座り、熟考し、理想のインスピレーションが降りてくる瞬間をじっと待っている姿を表しています。 このシューベルトの像は、近くに建つヨハン・シュトラウス二世の記念碑の大きな金色の像とは対照的な趣で注目に値します。
見所6:ドクター・イグナツ・ザイペル広場
シューベルトは子供の頃とても美しい声を持っていたので、早い頃から宮廷の聖歌隊員になりました。 11歳の時、彼はこの歴史ある美しいドクター・イグナツ・ザイペル広場にある宮廷市立大学に入学しました。 モーツァルトの有名な同僚でシューベルトの教師になる予定の宮廷指揮者アントニオ・サリエリは、シューベルトの才能をすぐに認めました。 広場には、シューベルトの学校、イエズス会教会、オーストリア科学アカデミーもあります。
見所7:ウィーン市庁舎内のウィーン市立図書館
ウィーン市庁舎にあるウィーン市立図書館には、世界最大のシューベルトコレクションがあります。 現在、約340の直筆の楽譜、その他を収蔵しています。それらは、ほぼすべての作曲の初版、多数の後版、個人文書、およびシューベルトに関する広範な国際文学作品で構成されています。 歴史的な文書に興味のある方にとっては、まさにパラダイスです。
その他のウィーンとニーダーエステライヒ州のゆかりの地
見所8:ツー・デン・ドライ・ハッケン(Zu den Drei Hacken)
シュテファン大聖堂からそう遠くない伝説的なウィーンのレストラン「ツー・デン・ドライ・ハッケン」は、シューベルトがかつて食べたり、飲んだり(ビールがお薦め)、おそらく作曲した時とまったく同じ場所で、ぜひ訪れてみたいウィーンの名所です。メニューは、グリースノッケルスープ(セモンリーナの団子入りスープ)、クラウトフレッカール(キャベツを添えたパスタ)、カイザーシュマレン(小さく切って砂糖で味付けしたパンケーキとレーズン)など、オーストリアの伝統料理です。
見所9:新王宮
ホーフブルク王宮にある新王宮に所蔵された歴史的な楽器コレクションには、シューベルトが作曲する際に使っていたスクエアピアノが展示されています。 シューベルトの時代、最初のスクエアピアノは、上流階級のグランドピアノよりも安価で小型であったために、狭いスペースでの国内の音楽制作に貢献しました。また小型のスクエアピアノは、シューベルトの家庭的なシューベルティアーデ(シューベルトが私的に開いた夜会)と彼の友人たちにぴったりの楽器でもありました。 この歴史的な楽器コレクションには、ウィーン世界博物館からアクセスできます。
見所10:アウガルテン公園
シューベルトは1824年にアウガルテンホールで「小夜啼鳥(ナイチンゲール)」を演奏しました。 建物の外には、それを記念した銘板があり、現在はウィーン磁器工房と博物館になっています。 1718年に設立されたウィーン磁器工房は、ヨーロッパで2番目に古いもので、アウガルテンの磁器は、現在でも当時と変わらず、一つ一つ手で作られ、絵付けされています。ここには、オリジナルのシューベルト磁器コレクションもあります。 この公園には、独自のコンサートホールMuThを備えたウィーン少年合唱団の本拠地があり、ウィーン最古のバロック様式の庭園もあります。
見所11:ドライメーデルハウス Das Dreimäderlhaus
ドライメーデルハウスという名前は、シューベルトがここに住んでいたガラス工のフランツ・ツェルの3人の娘、ハンネル、ヘーデル、ハイデルと恋愛関係にあったという伝説に由来しています。 これは物語としては興味深いかも知れませんが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが数年間住んでいたパスクァラティ・ハウスのすぐ隣にあるこの小さな家は、本物のシューベルトとは何の関係もありません。 物語は、ルドルフ・ハンス・バルチの小説『シュヴァンメル』に基づいています。 この小説は、ジングシュピール(ドイツ語の歌芝居)の『ダス・ドライメーデルハウス』と2本の映画のテンプレートにもなりました。 あなたがこの場所を訪れた時は、シューベルト・レストランで、新しくアレンジされたオーストリアの伝統料理をぜひお楽しみください。
見所12:ウィーン中央墓地
シューベルトの死(享年31歳)から数年後の1888年に、彼の墓はヴェーリンガー墓地(現在のシューベルト公園)からウィーン中央墓地に移され、いわゆる楽聖区グループ32Aの墓28番に移されました。 ベートーヴェンは29番、ヨハン・シュトラウス2世は27番です。ウィーン中央墓地は広大ですが、この特別なセクションは簡単に見つけることができます。 2番正面門(Tor 2)から入り、並木道をまっすぐ歩きます。 シューベルトと彼の仲間の作曲家の多くは、そのすぐ向こうの左側に眠っています。
見所13:アッツェンブルック城
フランツ・シューベルトと友人たちは、ウィーンからわずか30分ほどの所にあるニーダーエスターライヒ州のこの中世の城にゲストとしてよく招かれました。 作曲家に捧げられた博物館は1986年に設立され、城の主翼にあります。 バロック様式のガーデンパビリオン(シューベルトの作曲のための家)がある公園は、思わず散策したくなる素敵な所です。 そして城では、今日でも、プライベートコンサートや、シューベルティアーデ(親密なシューベルトの夕べ)が行われています。
オーバーエステライヒ州では…
見所14:リンツ
シューベルトの最初の重要な友人のサークルはリンツで生まれ、その中心にはスパウン家の人々がいました。 文学や哲学に興味のある人々は、ドナウ川沿いのこの音楽都市で、読書会や懇親会を開催し、それが後にシューベルティアーデのように有名な集まりになりました。
見所15:シュタルツァーハウス(Das Stalzerhaus)
「私が住んでいる家には8人の女の子がいて、ほとんどすべての子がきれいです。わかるでしょう、私にはやることがたくさんあるのです…」。シュタットプラッツ広場34に住んでいた頃の浮かれた シューベルトは、兄に宛てた手紙の中でこう書いています。作曲家シューベルトは、1819年にこの家に住み、たぶん1823年にも再びこの家に住んでいました。この歴史的な旧市街で、シューベルトの休暇中に有名な『ます』を作曲しました。 この明るい軽やかなピアノ五重奏曲は、22歳のシューベルトが楽しい環境の中で過ごしていた時間や、都市でずっと過ごして来た若者が過ごす長閑な田舎での夏休みを、はっきりと反映しています。シュタイヤ川の畔に造られたこの美しい街は、中世の建物、シュタットプラッツ広場にある17世紀の噴水、18世紀の市庁舎、復元されたゴシック様式のブンメルハウスが並ぶ歴史的な傑作です。
見所16:グムンデン
(所在地:4810 Gmunden)ザルツカンマーグート地域の絵のように美しいアルプスの山上湖トラウンゼーは、ザルツカンマーグの東にあります。 その湖の先端部には、1825年にシューベルトと友人のミヒャエル・フォーグルがここに数週間滞在した、魅力的な夏のリゾート、グムンデンがあります。「今、私はシュタイヤに戻った所です。6週間グムンデンにいました。そこは、天国のような本当に素晴らしい所です…」と、シューベルトはグムンデンの印象を書き残しています。
見所17:シュタイレック城
ドナウ川に近いプフェニング山の麓には、中世のシュタイレック城があります。 シューベルトの『エレンの歌 第3番』は、ウォルター・スコットの詩『湖の麗人』に基づいた作品で、オーストリアの小さな町にあるゾフィー・ヴァイセンヴォルフ伯爵夫人の城で最初に演奏されたと言われています。 この歌が彼女に捧げられ、そのことが基となり彼女自身が「湖の麗人」として知られるようになりました。
見所18:クレムスミュンスター修道院
シューベルトの2回の旅行では、彼はクレムスミュンスター修道院(西暦777年設立)に行き、修道院の執事長であるP. ハインリッヒ・ハサックとピアノを弾くのが大好きでした。 このユネスコ世界遺産でもあるベネディクト派修道院には、多くの歌の写しや、初期の版画、直筆文書が保存されています。この修道院教会は、繊細なスタッコ(飾り漆喰壁)、鮮やかなフレスコ画、優れたタペストリーなど素晴らしい作品が多数ある、オーストリアのバロック時代の重要な好例と言われています。
見所19:サンクト・フロリアン修道院
シューベルトの親友の1人であり、自由主義者のヨハン・マイアホーファーが当時コミュニティのメンバーだったため、シューベルトの作品はこのバロック様式の修道院で頻繁に演奏されました。 シューベルトは1825年に、「オーバーエスターライヒ州では、どこに行っても私の作品に出会うことができます。特に、聖フロリアンとクレムスミュンスターの修道院では、…、」と書いています。