サンクト・ペルテンの見どころ
サンクト・ペルテンは州都に制定されたのは新しいですが、都市としての形成は中世にさかのぼります。トライゼン川沿いのこの都市は、オーストリアで最古の都市権が授与された町で、すでに1159年にパッサウ司教コンラッドによって都市権を授与されました。また、サンクト・ペルテンはバロック都市であり、バロック建築の代表作であるメルク修道院を建てた建築家が街の最初の全盛期をもたらしました。 1689年にバロック建築家、ヤコブ・プランタウアーがここに移住し、真の建設ブームが交通に恵まれたこの都市を変えました。カルメル会修道院または英国女子学問所(貴族令嬢の教育施設)の中心部は、これらの年に遡ります。その後、バロック様式の素晴らしい建設が、フールマンガッセとヘレンプラッツのファサードに広がりました。
多彩な色と豊かな形は、歴史的な背景にも増して印象的です。サンクト・ペルテンの時代を超越した成熟を示し、いつまでもそこにいたい思いに駆られます。建築家のボリス・ポドレカにより再設計されたバロック様式の市庁舎広場では、バロックの華麗さに印象付けられることでしょう。たくさんの近代的な野外イベントと同様、新しいサンクト・ペルテンは訪れる人々を魅了します。
市庁舎広場
13世紀を通して計画的に建設されたこの広場には、すでにローマ時代から集落がありました。ごく初期の時代から、ここでは市場が開かれていました。広場の南側には、18世紀初頭にプランタウアーがバロックに改修した泉がありました。考古学的発掘調査によれば、ここの古代都市は三回に及ぶ外敵の襲来により破壊されてきたことが証明されています。この広場は、サンクト・ペルテンの様々な歴史的出来事の舞台でした。皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が来訪、第一次世界大戦にはここから部隊が出征、その大戦後には、ここで共和国設立が宣言されました。
市庁舎
広場の南側に建つ市庁舎の正面のバロック式の部分は、ヤーコブ・プランタウアーの甥、ユーゼフ・ムンゲナストにより1727年に付け足されました。現在、正面入り口のある東側建築が最初の市庁舎で、現在の建物全体は様々な建築部分の複合体となっています。車寄せのアルコープは14世紀のゴシック様式、16世紀のルネッサンスの門、南側建物は以前の穀物倉庫と武器庫でした。1590~91年には上の階が加えられ、今日の塔が建てられました。
市庁舎広場の市民の家
市庁舎の左側に隣接するラートハウスガッセ2番地の家は、通称「シューベルトの家」として知られます。司教ヨハン・ネポームク・ダンケスライターの招待を受け、1820年サンクト・ペルテンを訪れたシューベルトは、繰り返しこの建物に住むミュンク男爵の下に滞在しました。現在、正面入り口の窓の上に記念レリーフが飾られています。
市立劇場
1820年に建てられました。現在オペラ、オペレッタ、演劇などをレパートリーにしています。
フランシスコ派修道院と教会
市庁舎広場の北側に建つ修道院は、ウィーンの建築家ヨハン・パウリの設計で、1757年以降、カルメル派修道院として建設されました。1782年に皇帝ヨーゼフ二世が修道院を閉鎖した後は、フランシスコ派の修道士がここに引き移ってきました。重要なのは、ロココ様式の説教壇と中央裁断で、力強い列柱はサンクト・ペルテンの彫刻家アンドレアウ・グルーバーの制作、また湧き祭壇の4つの祭壇画はクレムスのシュミットの名で知られるマルティン・ヨハン・シュミットの作品です。
三位一体の柱
市庁舎広場の中央に立つモニュメントは、ペスト、火災、地震、繊細などを克服した記念に、1767~1782年にアンドレアス・グルーバーにより制作されました。
旧カルメル派女子修道院とカルメル派教会
1707年、修道院建築家マルティン・ヴィトヴェーの設計をもとに、ヤーコブ・プランタウアーによって建てられました。その後、ウィーンの建築家で劇場技師のマティアス・シュタインによってさらに手を加えられました。この町の多くの修道院同様、皇帝ヨーゼフ二世により閉鎖され、1787年よりは兵舎となり、教会も征服倉庫、火薬庫として利用されていました。1934年に再び修道院・教会として再建。
旧郵便局
カルメリーターホーフに隣接するバロック様式の建物には、1705~1849年まで郵便局がありました。中庭にある旧厩舎はみごとに改築され、イベントホールになっています。
歴史的なホテル「ツーム・ゴールデネン・レーヴェン(金獅子亭)」
リンツァーシュトラーセ16番地の家は、16~17世紀の建物を基に、19世紀初頭に上の階が付け加われ、この町で最も重要な宿泊地でした。「ファルケンシュタイン伯爵」の偽名で身分を隠して旅をした皇帝ヨーゼフ二世も、宿泊者の一人でした。
英国女子学問所
1706年にクリーヒバウム男爵によってリンツァーシュトラーセ9番地に貴族令嬢の教育施設として設立したもので、幅広い正面のファサードはニーダーエステライヒ州で最も美しいバロック建築の一つです。ヤーコブ・プランタウアー設計の礼拝堂は1718年に献堂されたものです。
リーマープラッツ広場
13世紀には新たな都市の中心地となっていった広場で、ウール市場が開かれ、14世紀には木材市場も開かれるようになりました。今日の名称のリーマー(靴紐職人)プラッツは19世紀からのもので、当時はこの広場を中心に皮革業地区、木材業地区、市場、修道院地区がありました。リーマープラッツに並ぶ建物の最も古い部分は、ロマネスク時代のもので、18世紀には新たな外観を持つようになりました。中央に立つ大理石の彫刻は、オランダの彫刻家ハイム・マーダーによるもので、「市民に開かれた市長の耳」と題されています。
オーベレ・ウィーナーシュトラーセ
ローマ時代にもこの通りは町の幹線道路の一つで、1100年以降は、パッサウ司教が開設した商人部落の中心となり、当時は宿泊施設も数多くありました。この通りの一番地には1595年からの古い薬局が建っています。
ヘレンプラッツ広場
芸術的に見て、この町で最も整った美しい広場で、中世から毎日、市が開かれています。最も美しいバロック宮殿の一つとされるヘレンプラッツ2番地の家は、1724年に建設され、設計は巨匠ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントあるいは弟子の建築家のものとされています。正面破風には「闇の力」を追い払う「光の力」のアレゴリーが飾られています。14番地と16番地のバロック宮殿も美しいです。広場中央にはマリアの柱があります。
ウンテレ・ウィーナーシュトラーセ
27番地のバロック宮殿は現在、市立図書館で1720年に建てられました。34番地の家は、1756年に建てられたもので、1796年からは郡長官の政庁でしたが、1805年委はナポレオンとミュラ元帥の宿泊所となりました。その他この通りには司教区神学校、旧市民病院の建物もあります。
ドームプラッツ
この広場でもローマ時代の集落の跡が発掘されていて、ローマ時代の城壁、暖房装置、すでに当時、河川工事で整備された川床などが発見されました。広場の西側にはかつての貯蓄銀行の建物はあり、正面破風には若き日のグスタフ・クリムトのモチーフが見られます。広場の北側と東側にはドームと司教館が建っています。司教館は791年には聖ヒッポリュトス修道院として設立されてもので、ニーダーエステライヒ州で最も古い修道院です。聖ヒッポリュトスはサンクト・ペルテンの名前の由来で、ドイツ語名「サンクト・ヒッポリート」が「サンクト・ポリート」になり、さらに「サンクト・ペルテン」に変化したものです。ドームの西側建築は1150年に完成しましたが、今日では一部が残されているのみです。ドームの北塔は1512年に焼失し、再建されなかったため現在はプランタウアーによって建設された南塔だけが残っています。ドームの内部は1722年プランタウアーによってバロック化され、1735年ヨーゼフ・ムンゲナストによって完成。
ヤーコブ・プランタウアーの家(クロスターガッセ15番地)
サンクト・ペルテンの歴史上最も有名な市民ヤーコブ・プランタウアーが1692年に買い上げ、完全に改築しました。現在、古くからの建築部分としては、地階の一部とバロックの階段ホールのみ残っています。
ヨーゼフ・マリア・オルブリヒの「シュテールハウス」
クレムサーガッセ41番地に、サンクト・ポリートで最も美しいユーゲントシュティールの家があります。これはウィーンのセセッシオンの設計者として知られる、ヨーゼフ・マリア・オルブリヒが1899年に建てました。当時としては極めて大胆で奇抜なデザインのこの建物は、今日、町を代表する建築的記念碑となっています。