ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
モーツァルトをもっと身近に... 音楽の天才とその人間像

モーツァルトをもっと身近に... 音楽の天才とその人間像 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)は、世界の著名な作曲家の中でも最も重要な人物の一人です。その優れた才能の裏に隠された人間像を知るために、毎年たくさんの人々がウィーンとザルツブルクを訪れます。

モーツァルトが生活し、仕事をした場所。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年、ザルツブルクのゲトライデガッセ通りにある、現在は明るい黄色の建物(モーツァルトの生家)の3階で生まれました。ここは、彼が子供時代をずっと過ごした場所でもあります。彼の父親レオポルド・モーツァルトは、早くから息子の音楽的才能に気付き、彼の音楽の活動を奨励し、促進しました。彼が4才になると、小さなモーツァルトはピアノと作曲の教育を受け始めました。そして彼が6才になると、ウィーンの宮廷訪問を含む、初めての演奏旅行へと出発します。

ウィーンのドームガッセ通り5番地にある、現在モーツァルトハウス・ヴィエナとなっている建物は、モーツァルトが人生の中で、最も幸せで最も実り多き日々を過ごした場所です。ザルツブルクで過ごしていたモーツァルトは、ザルツブルクの大司教コロレドとの劇的な雇用契約解除を契機に、独立した音楽家、作曲家として帝都ウィーンでのキャリアを始めます。ウィーンにおけるモーツァルトは、尊敬を集める立派な音楽家、作曲家であり、音楽の先生でもありました。また、この地こそモーツァルトが重要な歌劇「フィガロの結婚」や、数々の有名な交響曲、ピアノ、クラリネット、ホルン、ヴァイオリンのための協奏曲、弦楽四重奏曲、そして、最後の仕事となった未完の「レクイエム」を含む聖楽曲を作曲したところです。当時のモーツァルトの年収は、約5000フロリン銀貨(現在の価値に換算すると約150,000ユーロに相当)だったそうです。 

モーツァルトは死の直前まで、頻繁に旅行をしていました。彼は熱狂的な性格の人物で、しばしば子供じみた乱暴な衝動に突き動かされました。しかし、彼は常に自身の音楽家としての偉大さを意識していました。

2. モーツァルトは35年の生涯の内、なんと10年間を旅に費やしました

 「旅は人の視野を広げる」というのが、彼の父レオポルド・モーツァルトの持論でした。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、子供にも関わらず、よく旅をするヨーロッパ人でした。彼のコンサートツアーは、遠くはロンドンにまで達し、その驚くべき才能は国際的に知れ渡りました。しかし、当時旅の主な交通手段は馬車によるものだったので、大変時間がかかり、辛いものでした。ザルツブルクからウィーンに行くにも、優に一週間はかかりました。モーツァルトは人生の内の10年間という時を費やして、合計17回のコンサートツアーを行いました。旅行中にも作曲ができるように、彼はよくコンパクトな鍵盤楽器「トラベル・ピアノ」を携えて行きました。このピアノは、幅わずか90センチ、奥行き31センチしかなく、取り外しができる別個の脚が付属していました。

モーツァルトは、スーツケースに何を詰めて行ったのでしょうか?

モーツァルトの最も重要な旅のお供は、もちろんトラベル・ピアノとヴァイオリンです。それに加え、高貴な人々の前で演奏する時に着るエレガント服も重要でした。他にも毎日の生活に必要なアイテム、例えば、トイレタリー用品、筆記用具、お茶や砂糖の容器、カトラリー、救急キットなどです。

また、モーツァルトは本、旅行ガイド、外国語を学ぶための文法の本なども入れていました。旅先のさまざまな通貨に換算する時に、金貨の価値を正確に計算するための硬貨換算表は役立ちました。

父のレオポルド・モーツァルトは、家族がより容易に高貴な人々に会えるように、常に何通かの推薦状を携えていました。

3.モーツァルトはナイトの爵位を持っていた?

 ヴォルフガングの父レオポルドは、かなりモダンな考えを持つ男性でした。彼は妻を愛し、良く物事についての妻の意見を求めました。それは、当時としてはかなり珍しい事でした。また、彼はマーケティングの天才であり、進歩的な発想を持っていました。しかし、実は一つの伝統的な野心を抱いていました。それは、レオポルドの二人の子供に貴族の爵位を賜る事を頑なに望んでいたことです。そして、ヴォルフガングは実際「ゴールデン・スパーのナイト爵位」をローマ教皇から授与されました。しかし、若きモーツァルトは爵位に見合う高貴な生まれの女性を自分の伴侶として求めるよりも、恋愛結婚をする事を決めたのでした。そして、高貴な位に対するモーツァルトの意識は、忘却の淵に沈んでいきました。彼は自分の爵位を、自分のために公式に用いた事は一度もありません。自分をただ単に「ヴォルフガング・アマデウス」、または、イタリアを旅行中には、「ヴォルフガンゴ・アマデオ」として人には知っておいて欲しかっただけなのです。

4. モーツァルトと父親のような友人ヨーゼフ・ハイドン

1781年にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、自分より24才年上のヨーゼフ・ハイドンと親しい友人になりました。ハイドン以後、ウィーン古典主義を代表する、二番目の主要人物と称されたモーツァルトについて、ハイドンはモーツァルトの父に言っていました...「神に誓って、また、正直者として私はあなたに申し上げますが、私が直接知っている人物、もしくは、名前を知っているすべての人々の中でも、あなたの息子は最高の作曲家です。彼には素晴らしいセンスがあり、その上、非常に深遠な作曲の知識があります」と。ハイドンとモーツァルトはフリーメーソンのメンバーでしたが、これは二人の間の強い絆を裏付ける更なる証拠といえます。
 

5. モーツァルトと ウィーンにおける晩年

モーツァルトは、人生の最後の10年間をウィーンで過ごしました。この地で、彼は結婚し、子供が生まれ、亡くなり、そして埋葬されました。モーツァルトの波乱万丈の人生は、数々の噂や、伝説、推論に付きまとわられていますが、その中でも、彼の突然の死にまつわるものが取り分け多いようです。死の直前に、彼自身が毒を盛られたと確信していたそうですが、この仮説は科学的研究によって反証されています。

モーツァルトに関する5つの面白い事実

1. モーツァルトと恋

21才の時、モーツァルトは母と共に、ドイツの都市マンハイムへ旅しました。この街で、モーツァルトは歌手アロジア・ウェーバーに恋し、夢中になりました。ヴォルフガング・アマデウスは、アロジアと結婚し、彼女と共に人生を歩むだろうと、すぐにハッキリと意識しました。二人の結婚式のミサのための曲を作曲し始めたほどです。しかし、アロジアは彼のプロポーズを断りました。

厳格で野心的なモーツァルトの父も、息子が大人であるにも関わらず、未熟過ぎると考えていたので、この結婚には反対でした。父はヴォルフガング・アマデウスには、女性たちなどに気を取られず、自分の仕事に専念し続けることを望んでいたのです。

しかし、恋愛感情は永遠には先延ばしにすることは出来ません。モーツァルトがウィーンに引っ越した時、アロジアの妹コンスタンツェ・ウェーバーと出会いました。モーツァルトは父の望みに反し、父の許可もなしに、1782年8月4日にウィーンのシュテファン大聖堂で、質素で小さな挙式を挙げ、コンスタンツェと結婚しました。

2. モーツァルトはアーモンドミルク、ザウアークラウトとビールが大好物

モーツァルトは、現在もザルツブルクのアルター・マルクトで営業している、その起源を1700年まで遡ることができるオーストリア最古のコーヒーハウス、カフェ・トマセリで、よくアーモンドミルクを注文していました。モーツァルトがこの店の定連客であった訳は、少しも不思議ではありません。なぜなら、このカフェは、ゲトライデガッセ通りのモーツァルト生家から徒歩でわずか数分の距離にあるのですから。

モーツァルトがザウアークラウトとレバー団子などのスパイシーな料理に好んで合わせた飲み物は黒ビールです。モーツァルトの妹のナンネルの日記には、ザルツブルクのシュティーグルブロイを訪れたことが記されています。1780年8月に、彼女はこう書いています、「3時に私たち三人は、シュティーグルブロイにボーリングを見に行きました。私たちは、この立派なビヤホールで美味しいビールを何杯か飲みました」。

3. 彼の本当の目の色は?

注意深く観察して見ると、モーツァルトの外見に不可解な点がいくつかある事に気付きます。一つにはモーツァルトクーゲルンの包み紙に使われている絵と、もう一つは彼の肖像画です。それらを見てすぐに気づくことは、彼の鼻の形が何度も変化していっていることです。それは、彼の鼻が時代と共に徐々にスリムに描かれていて、モーツァルトをより若く、よりハンサムに見せている事です。彼が生まれた家のリビングには、この音楽の天才の肖像画がすべての壁に掛かっていますが、それぞれの絵に描かれている目の色が違っているように見えます。これは、18世紀には画家はその被写体の目を、その当時の理想の美人美男の概念であったブルーの瞳に描いたからです。実際は、モーツァルトの目の色は、恐らく暗褐色だったと思われます。 

4. モーツァルトは自分の家で飼っていたペットについて詩を書きました

マルクトプラッツにあったモーツァルト家の住居で、ペットとしてハムスターでも金魚でもなく、何羽かの鳴鳥を飼っていたとは、いかにもモーツァルトらしい話です。他にも、家族の間でとても可愛がられ、甘やかされていた、ピムペールという名のフォックステリア犬も飼っていました。モーツァルトが引っ越したウィーンでも、ムクドリなど数羽の小鳥を買っていました。ムクドリが死んだ時、「死んだムクドリの詩(1787年)」という詩を書き、その鳥に手向けました。 

5. モーツァルトは驚異の人物として、これからもその名は後世に残ります

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは合計626もの作品を作曲しましたが、彼は当時としても短命で、わずか35才までしか生きられませんでした。モーツァルトは12才になるまでに、既に3つのオペラ作品、6つの交響曲と何百もの作品を作曲しています。その天才的な才能は、当時の人々を感動させただけではなく、モーツァルトの驚異的な作曲に対する人々の感嘆は、今なお生き続けています。

そして、現在に至るまで「モーツァルト・マニア」の熱情は少しも衰えてはいません。実際に、ビジネス的にも、その他のさまざまな事においても、モーツァルトほど成功を収めたミュージシャンはいません。オーストリアのポップスター、ファルコは1986年に米国のポップチャートを「ロック・ミー・アマデウス」という曲で急襲し大ヒットを飛ばしました。ミロス・フォアマン監督は、映画「アマデウス」で、1984年に8つの部門でオスカー賞を獲得しました。ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場では、ミュージカル「モーツァルト」の公演で連日満員という大ヒット興行成績を収めました。彼の肖像画は、オーストリアの1ユーロ硬貨を美しく飾っているだけではなく、有名なザルツブルクのモーツァルトクーゲルンにも見られます。この前代未聞の偉大なる音楽の天才にまつわる、数え切れないほどの伝記、小説、伝説が「モーツァルト・ブランド」の観客動員力の凄さを証明しています。モーツァルトのブランドは、現在の価値に換算すると、50億ユーロにも相当するそうです。

ウィーン古典派音楽

ウィーン古典派(1770年~1830年)とは、主にヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンらに代表される、ヨーロッパのクラシック音楽の様式です。

モーツァルトがウィーンに引っ越してきた年以降の数年間が、ウィーン古典派の発展を決定づける時代でした。この時代こそが、ヨーゼフ・ハイドンとモーツァルトが音楽的な発想を変え、互いに刺激を与え合いながら、この素晴らしい時代にふさわしい、最も人気のある様式の新しい弦楽四重奏や交響曲を作曲したのです。

ウィーン古典派音楽の詳しくは

モーツァルトをもっと身近に...ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、ウィーンのサウンドと呼ばれる独特の音を奏です。モーツァルトの音楽に関して言うと、花形の指揮者たちは彼らを以下のように表現しています; 「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、モーツァルトの音楽を、他のオーケストラにはできないほど、非常にナチュラルで華麗に演奏します。これは、モーツァルト音楽の伝統の典型です。彼らのサウンドは個性を反映し、それをはっきりと明確に創り上げています」。

やはり、オーケストラが故郷の街ウィーンに175年以上も存続したしてきたという歴史と、ヨーロッパ音楽の伝統とのつながりは非常に魅力的です。

ウィーン・フィル公式サイト

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